海が吠えた日 第65回 「南海地震当時を思い出して―大島の生活」 七十代 男性

2011年11月8日

大島港
大島港

私は昭和二十一年一月に中支より復員し、二月に法務府事務官(看守)に採用された。当時は戦後の混乱で犯罪が多発し刑務所が満員となって、施設が破裂状態だった。

 

そこで牟岐大島は野生の栗や柿がいっばいで、格子なき牢獄としては格好の場ということで、収容者約六十名、看守四名と共に楽園を求めて一日二合の配給米全部を携えてこの地に渡り、伐採作業に従事した。

 

当時大島頂上には松茂海軍飛行場の看視区域としての兵舎跡があったが、窓ガラスはほとんど壊れて海風が吹き抜けていた。中腹辺りに旧住居跡があり、明治三十年ごろまでは数軒暮していたが生活に不便なことが多く、島を離れて対岸の古牟岐へ移住したと聞いた。その住居跡辺りに地主のA様とM、その横の格子なき牢屋に私達六十余名が生活して居た。

 

大島港は水清くして波静か、赤、青、黒色とりどりの魚が遊泳し、海底まで澄みきって見えており、島の南側の沖合付近にはイカ釣り舟が多数漁をしていた。私たちの住んでいた部屋の窓から上は、見渡す限りシイの密林で、落葉の下には万という多数のカニ(体長三糎)がはっていた。

 

このシイの木を伐採し薪に束ねて木馬ですべり降ろして、港から機帆船で大阪方面へ積み出すまでの仕事だった。当時は塩が不足していたので、港の近くで鉄板桶で薪をたいて塩づくりに精出した。その横辺りでは牟岐の人が炭を焼いていた。このように災害発生の前日までは、大島は平和な日々だった。

 

ところが思いもよらぬ異状事態が発生した。忘れもしない同年十二月二十一日午前四時ごろ、私は突然異様な海鳴りの音に眼をさました。ゴオーと長く尾を引く大音響でとても無気味だった。その直後ドスンと地響きがして、震度七はあったと思われる縦揺れがして、島全体が大きく揺れた。私たち職員の必死の静止命令にもかかわらず、収容者たちは全員室外に飛び出した。

 

一寸先視界零、真暗闇の中の人間の狼狽、あちこちの崖の下に落ちて呻く声、重傷二名、軽傷七~八名だった。下の方から炭焼の人が「救けてくれー」と大声を発しながら、私たちの宿舎目指して命からがらはい上ってきた。全員必配で頂上に駆け上り、夜が明けるまで呆然と立ちつくした。駆け上った処は海軍兵舎辺りだった。島の周囲海も森も一面真暗闇で、隣の者が誰やら分からなかった。

 

その時遥か東方水平線の彼方、横一線にさざ波が白く光って見えた瞬間、空天より海に向かってもの凄い稲光りがした。途端にそれはそれはこの世の物とは思えないほどの大音響でゴウオゴウオと海鳴りがして、マットを巻くような影の物体が段々大きくなりつつこちらに向かって近づいて来た。

 

これがすなわち津波だった。世界広しと言えどもこの光景を見たのは、恐らく私たちだけだろう。数分はかからなかったと思う。大島の標高は知らないが半分は浸ったと思われる。二~三十メートルはあっただろうか。この間五~六分間の出来事だった。

 

夜が明けて判明したのだが、大音響は島の頂上に数百年も坐っていたと思われる畳二十畳もあろう大岩が、数十メートル下に平面のまま落下した時の音と揺れであった。

当時は通信網はなく、交通も大島から牟岐港へは一時間余りを要する小さいポンポン船が唯ひとつの手段だった。

 

私たちはこの後が大変だった。怪我人を治す薬も人もなく、収容者A君の右手の掌が黴菌に犯され、野球のグローブのようにはれあがり、大声をあげて痛がった。私は剃刃を火に灸って消毒の真似をして、彼の指五本を縦にすーっと切り膿を出した。ところが翌日指はまたはれあがり、何ら救ける手段もなく途方にくれた。腰を抜かした者は寝かすだけの方法しかなかった。

 

食べ物も補給二~三日前の出来事だったので少なかった。カシの木を割って中にいるカミキリ虫の蝋を取り集め、鉄板で焼いて全員で食べた。収容者の一人はカニを手当たり次第捕えて、ハサミで口唇をはさまれながら痛い痛いと言いつつ食べた。一番心配し困ったのは、港に死んで漂流していた属名北マクラという毒ふぐを、一人で知らぬ間に生で食ってしまったのを知ったことだった。

 

もう死ぬかと心配して寝かして案じていたのだが、不思議なことに何の症状も出なかったのは、どうしたことだったろうか。

 

さて地震発生後の四海の状況といえば、五~六日間は二メートルを余る三角波が火柱のように一面に立って荒れ狂い、牟岐港付近はもちろん大島付近沖合にも一そうの船影すら見当たらず、島からは牟岐への連絡もとれずにただ毎日毎日山の上で呆然と立ち、不安とデマが入り交り、遠くに見える牟岐の町の数条立ち昇る煙を見て、いかにも見て来たかのように「あれは死人を焼いているのだ。これは大変なことだ。戦争以上の被害だ。我々は誰も救けに来てくれない。

 

このまま全員死んでしまうのだ。」と思い、日がたつにつれお互いが疑い合い、弱肉強食の世界へ入りつつある感がした。私も全く鬼畜のような風貌と心になっていた。

 

一週間後に、所長が小松島の漁師に頼んで、島へ物資を運んでくれた時でさえ、私は港で睨みつつ敬礼することさえも忘れていた。所長曰く「あれは何だ。あの目付きは何だ。あれでも刑務官か。直ぐ本所へ転勤辞令を出す」と相当腹と立てていたのを思い出す。

 

昨年も阪神大震災で大きな被害を受け、また各地で地震が多発、津波警報もたびたび出されるが、当時の私たちの大島での生活文化状態とは比較にならないが、被害を少なくするためには、最小限の食糧、電池、応急薬品、飲料水の確保、低地や危険な落下物の下にいないこと。

 

釣舟、釣客への情報周知と防災対策も考えておくべきである。あの南海地震のような大地震の発生にあらかじめ予防策は至難だが、現在は情報をより速く探知、日ごろからの訓練によりパニックに落ち入った時こそ、良き指導者が冷静に誘導すべきで、パニックが災害よりもこわいと私は思う。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

地図

牟岐大島

お問い合わせ

防災人材育成センター
啓発担当
電話:088-683-2100
ファクシミリ:088-683-2002