海が吠えた日 第66回 「津波体験聞き取りから」

2011年11月15日

旧大川橋より西を望む
旧大川橋より西を望む、

西漁協・公会堂が見える(故T氏撮影)

◎調査中に貴重な体験を話して下さった方で、掲載できなかった方々の体験を要約しました。ご協力ありがとうございました。

 

○女性

私の家は床上一〇~一五センチ位まで浸った。北側のOさん宅の前からOさん宅の方へ廻り、Tさんの畑から、Oさんの畑(現在駐車場)、Iさんの畑(現在サンライン入口の駐車場)へあがり、せんど山(西山トンネルの上)へと逃げた。

 

○女性 (O、当時はK家の裏で現在道路)
床上一メートル位まで浸水し、裏の観音寺川側の柱と庇は波でとんでしまった。海蔵寺へ逃げたが胸まで浸った。(平成八年三月逝去されました)

 

○女性 (O)
新宅だったが床上まで津波がきた。裏からせんど山へと逃げた。

 

○女性 (N在住、当時宮ノ本浜筋に家があった)
肩位まで浸って海蔵寺へ逃げた。

 

○男性 (当時宮ノ本、現在N在住)
地震最中に観音寺の庭へ避難した。地震がゆり終るとすぐに観音寺川より波がきて、弟と二人で坊小路を通って灘道へ避難した。M宅横のコンクリート塀の蔭で一時波をすごした。母は一度家に帰ってから西の山の方向へ逃げた。

 

自宅は床上一メートル位浸っていた。祖母は隠居(分家で観音寺の前)I叔父の家の二階にあがり、そのまま二階に居て助かった。叔父の家の玄関には漁船が突込んでいた。現在Nさん宅(東部保育所前)で地盤は当時のままである。

 

○男性 (当時宮田、現在N在住)

当時七間町角(現在のW精肉店)だったが自宅横の七間町は道路上約一メートル位波がきた。Tさん地震後すぐにせんど山へ逃げた。浜から誰かが「津波がきよるぞー」というのを聞いた。後から逃げてきた人たちはみんなぬれていた。

 

私の家はコンクリートの庭から一メートル位波がきており、タタミやフトンはそのまま上へあがっていた。前のOの倉の瓦が地震でたくさん落ちた。庇も落ちてやりかえた。住吉丸が二隻沖の防波堤にのりあげた。

 

○女性

私の家は中の島で、前は町役場で裏は港だった。津波がきた時は家族がばらばらで逃げた。私と母が家の外に出た時はもう波がきていて何処へも行けず、役場の窓をあけて中に入り一メートル位高い所にあがっていたが、波がきて役場の中を流された。物にあたらなかったのは、波の高さが机の高さよりも三倍ぐらいは高かったからだと思う。

 

便所あたりまで流されてきて、そこから公会堂の二階へ引張りあげてもらった。夜が明けて波が引きだしてきたら、役場の前はさつまいもがいっばいだった。家は屋根の上を運搬船が走って、小学校とH食堂の横の橋の上にすわっていた。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

地図

海蔵寺、観音寺

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