震潮記(第2回)-震潮円頓寺旧記之写:慶長九年十二月十六日(1605.2.3)

2008年8月1日

200_2008_121747568871.jpg

 参照口絵 大般若経六百巻(大日

寺蔵、西田茂雄氏撮影)

慶長(けいちょう)九年十二月十六日震潮円頓(えんど)寺旧記の写し(その一) 

 

一、 宍喰浦は慶長九年十二月十六日(一六〇五年二月三日)午前九時より、午後三時まで大地震にて、今までに見聞きしたこともない大異変であった。同日午後五時月の出るころより、大津波が海底からすさまじい勢いで押し寄せ、宍喰浦中の泉から水がわき出るところ二丈(約六㍍)余り、そのほか土地は裂け、泥水はわき出て、さてさて言いようのない大変事である。

 

   そのころ、人々の逃げ延びる所、寺より南西に当たり古城の小山(愛宕(あたご)山)があり、これへ逃げ登った人数は百七十余人であった。それも老人や幼い子供は途中で波に打ち倒され、皆々流れ死んだ。ようやく自分たち(住職)も本尊と、このお寺が建立されたときの御証文、知行折紙(ちぎょうおりがみ=土地の保証書)二通と御棟札(むなふだ)、そのほか手近にあるものを持って、命からがら逃げ延びた。

 

   長福寺(現・願行寺)本尊は、開山願主の東林が本尊を背負って逃げ、これより上(かみ)に在所があり、日比原という道筋の堤下まで来た。しかし、本尊を背負いながらも老人のことだから足が遅く、ついに波におぼれて死んだ。
  東隣の真福寺の宥真(ゆうしん)と自分(宥慶(ゆうけい))は、本尊と手近にある必要なものを持って逃げ、ようやく命は助かった。

 

   三ヶ寺結衆(けっしゅう)(真福(しんぷく)寺、円頓(えんど)寺、大日(だいにち)寺の関係僧侶)のうちでも、大日寺の栄宥(えいゆう)は一度本尊を背負って逃げたが、たまた大師(だいし)尊像を取りに下り、御影(みえ)堂の下り段まで大師を背負いながら来たが、引き潮の時であったため、ついに波に打ち倒されて流死した。御影(みえい=弘法大師絵像)は長福寺の囲いに掛かった。その時すべての寺は、みんな倒れてしまった。

 

   山野に寝ること三日三夜、雪や霜に覆われ、さてさて人々の難儀はこの上もなかった。その中でも神変であろうか、宍喰浦の両社である八幡、祇園社は、拝殿まではんな流失してしまったが、本社は山手へ波に打ち倒されて林の木に掛かっており、そのまま建て直すことが出来た。
  ことに祇園社の宝物大般若(はんにゃ)経六百巻(口絵参照)は、祇園内殿に入っていて、すべて流失を免れた。浦里の氏子は寄り合って、大変な喜びようであった。
  これより国家や浦里の祈祷に大般若経を転読(てんどく=経文(きょうもん)を略読すること)をしたいと宥真が願い出て、浦里六ヶ寺結衆の人達が集まって、祇園社で転読し、正月十一日を定日として修行した。

  また、並んでいる三ヶ寺もみんな波に打ち倒れてしまったので、日を追って古道具を取りさばき、柱も折れて足りないので、日比原の在所の中に寺山という峠で大松一本分をもらい多田庄之助殿より御上(おかみ=藩)へ伺いをたて、当寺を建て直された。

 

   ほかの寺々へも、相応に御上より竹、木を下さった。そのほかの所は言うまでもなく、米、麦なども渭津(いのつ=徳島)より船で積み届け、分けて救助された。もっとも流失後、早々に見分奉行が来られて、検分された上でのことである。

 

   とにかく、筆に記し残したいことは数多くあるが、言葉にも言い難く、筆にも現し難いことだけれども、せめてはお国元への連絡の記しにあらまし書き残したものである。さてさて、哀れなことで後世の人々は驚くことであろう。

 

 

(田井晴代訳「震潮記」)

地図

宍喰円頓寺

お問い合わせ

防災人材育成センター
啓発担当
電話:088-683-2100