震潮記(第12回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年10月10日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その六)

 五月中旬から六月下旬のころまでは、地震も数少なく、両月にて六、七度くらいであった。

  宝永の地震の際は、祇園の祭り事も三年ほど出来なかったが、この度は、祇園の神祭りも平年のように出来た。また、にぎやかにその在所で出来た錦紗(きんしゃ)人形をもって、七日、十日、十四日の三日間興行した。参詣(けい)人も例年より多かった。

  もっとも丹鶴(たんかく)飾り船(だんじりおよび関船(せきふね)ヵ)は町筋が傷んでいたので、例年のように町筋を引くことは出来ず、当家の門先に飾っておいて、翌十五日に祇園、八幡へ引き込んだ。大山(大山・小山鉾(ほこ)の略)さんは例年の通り、六月一日、夜建てて土井の門まで引いて来て、十四日能、おはやしで祇園社へ引き込み、支障なく神祭りが終わった。

  はやし道具のうち、しし頭は昨年冬の津波に流失し、しばらく見当たらなかったが、祇園西手の田地へ流れ込んでいたのを拾い上げたところ、少しもぬれず、傷みもなかった。そのほかの道具も無事であった。このため例年のとおり能、はやしも出来た。

  同じ月の二十四日、愛宕山の祭りもこれまでは御山だけで済ましていたが、今年は山を下り、南町通り浜崎まで行き、これより本町通りを通って山を登り日帰りの神祭りも出来た。

  その上にまた、浦々の漁師も税を返上してあれこれと便宜(べんぎ)を図っていただき、船ともに丈夫に出来、鰹(かつお)漁もまず近年の大漁で、漁師共は昨年冬の苦しみも忘れるほどであった。

  また、郷中の豊作については、昨年冬のお年貢不足の分は格別のお取り計らいで、居屋敷(いやしき)分(居屋敷にかけられた年貢)は本年まで延期になり、田地の分はすべて免除されるよう言い渡された。

  その上、田畑の潮入りは、傷んだ場所とその程度に応じて、一ヵ年より五ヵ年までの鍬下(くわした=年貢を免除すること)を言い付けられ、堤などはそれぞれ普請され、稲作業なども例年よりは遅かったので、荒田(あれた)一鍬くらいですぐに植え付けた。

  潮入りの分は殊の外、出来柄がよくて、草の手入れも一番草、二番草までで差し止め、肥などは植え付けの際、少々ばかり施したままで、その後は肥なども格別に用いなかった。

  植え付けのときに多少の肥を用いた分は、稲が出来過ぎ、葉が腐り株もなくなった。荒田同様のまま植え付けし、草の手入れもしなかった分は、葉の先の腐りも薄く、それなりの出来のようにも見えたが、また虫害などで傷み、出来柄が良くなく、思いのほか実入りが悪く、浦中、平均して四分通りくらいの作柄であった。

  畑分も同様の状態で、塩入りの分は出来がよく、その上時々雨も降って、殊の外出来がよかった。

  近年の作柄は諸方とも先ずは豊作であろうか、米麦とも上方筋はおいおい値段が下がり、通銭(銀)一匁につき、白米九合、麦一升となり、人の心も次第に穏やかになった。

  かつまた、八幡神社の祭りは平年よりお供馬なども多く、殊の外にぎわしく行われた。
  しかし、丹鶴飾り船は六月同様で神興(みこし)だけで神祭りが出来た。

  また、地震も少しずつ穏やかになってきたところ、七月三日中揺り一度あり、これより八月下旬ごろまで一日に一度、または五日に一度、十日に一度ぐらいであったが、すべて小揺りだけであった。
  また、時々沖合が鳴ることもあったが、八月下旬より九月最初までは前と同様であった。


(田井晴代訳「震潮記」)

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