震潮記(第15回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年10月31日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その九)

  鞆浦に右浦旧年の津波の記が立岩に刻んであるところを左に記す。

  謹んで申し上げる。右(左ヵ)意味するものは、人皇百十代の御時、慶長九年十二月十六日(一六○五・二・三)午後二時ごろから十時ごろまでの間、常より月が白く、風が寒く、歩行もしづらい時分、大海が三度どよめいて人々大いに驚いたが、為すすべなく手を拱(こまぬ)いていたところ、海面では逆波が頻(しき)りに立った。その高さ十丈(約三十メートル)、寄せ来ること七回。名付けて大塩(潮)という。そればかりか男女千尋(ちひろ)の海底に沈むもの百余人。後代に言い伝えるために、之(これ=石碑)を奉じ建てる。このことを知った後世の人々は等しく利益を受けるに違いない。

  宝永四年の冬十月四日(一七○七・一○・二八)午後二時ごろ土地が大揺れした。乍(たちま)ち、海潮湧(わ)き出(い)ずること三メートル余り。どくどくと流れて高台を浸すこと三回にして止まる。しかし、私たちの浦は一人の死者もなく幸いと言える。後世の大地震にあう人は、最初から海潮の変化を考慮して津波を避けるべきである。そうすれば被害を免れることは可能である。

 

一、高知野根(のね)浦などは平素の潮より四尺(約一・二メートル)ばかりの高潮で、町筋へは潮が来ることはなく、浜崎辺りも少々潮の異常はあったけれども格段のこともなく、地震で人家は八分通りくらいも潰れ込んだ様子である。

  室津(むろつ)などはその折四尺(約一・二メートル)ばかりも潮が引き、そのままに来ない状態で、その後、船の出入りが出来にくく、また、津呂(つろ)浦などは人家のうちへ大岩を揺り上げ、また、所々に寄せては人家七、八分通りくらいも流失、または人家も田畑もすべて無くなってしまい、城下近辺三万石ほどの土地が海になり、潮が引いた時で一丈(約三メートル)ばかり海底に稲株などが見えているそうで、すべて田地は海になり、六万石ばかりの様子である。

  土佐辺りは地震も格別厳しく、一歩も歩けず、そのまま揺り倒され、地震半ばにはや波が来る状態で、死亡の者が多く、また、往還筋も同様の傷みで海になり、あるいは山崩れで通行が出来なくて、城下辺りは正月中旬のころより三月中旬のころまで、一日に一七、八度ぐらいの揺りと平均している。


(田井晴代訳「震潮記」)

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