海が吠えた日 第21回 「祖父の言い伝えと地震体験から」 六十代 女性

2011年1月4日

東七間町北の最高潮位標
東七間町北の最高潮位標

 高度情報化社会を迎え、地球の出来事が即時に分かる現代でも、地震の予知はむつかしいようで、地球のあちこちで地震による被害が起きている。今でも井戸水の観測をしたり、ナマズを飼って調べている人もいるらしい。

 郷里徳島県で、私は昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分、南海道大地震を体験した。文久三年生まれの祖父が、昭和二十年七月、終戦を待たずに八十三歳で他界するまで、家族によく話していたのは、「百年目の大潮(地震による津波のこと)が必ず来る。

地震が起きたらまず戸を開けて、地震がおさまれば津波が来るからすぐに高台に逃げるように、百年目も大分近づいているので、お前たちは必ず遭うから」と言っていた。

 第二次世界大戦も末期のころ、小学生の私たちは空襲警報のサイレンが鳴ると自宅に帰り、途中で爆音が聞えると近くの民家の防空壕に飛び込んでいた。空襲 の怖さと共に今で言うなら、震度三や四程度の地震がたびたびあり、教室の机の下に潜り込んでいたのを覚えている。終戦の翌年、昭和二十一年食糧は不足して いたがようやく平穏な日々が続くようになっていた。

 暮の十二月二十一日、とても寒い晩だった。母から言いつかり、近くの家まで用足しに出かけた。田舎の夜道は暗く、舗装もしていない道路にポツンポツンと立っている裸電球の街灯、人通りはほとんどない。

自分の履いている下駄の音だけが大きく響いた。その夜は、冬にしては珍しく無風状態で、町通りには磯の匂いというか、海藻の匂いが一面に漂っていた。海辺の町とはいえ海岸からの距離を考えるとなにか不自然で、また犬の遠吠えと鶏の夜鳴きでとても不気味な夜だった。

湯たんぽを入れた夜具の上に、綿入れの半天を掛けて寝た。朝方枕の下からゴーという地鳴りで目が覚めた。下から突き上げてくるような地震に母は雨戸を開けに走った。私と弟は父にしがみつき地震のおさまるのを待った。

父は大声で、「世直し、世直し」と唱えていた。とても長い長い時間に思えたが、ようやく横揺れの感じになったと思っていたころ、暗闇に目が馴れてわずかな月明かりで見える部屋の畳が大きく左右に動いているのが分かった。

雨戸を開けに行った母は、道路の小石がパチパチと跳ねあがり、ちょうどフライパンで豆を妙っているような光景に、軒下で足がすくんでしまったそうだ。

 地震がおさまると同時に祖父の言い伝えどおり、私たちは衣類を何枚も重ね着をして、わずかな身の廻り品を持ち、山寺(海蔵寺)へと一目散に逃げた。
 東の空が明るんだころ、眼下に見た光景は、地震津波による被害で、多数の人命をのみ一変した町並みだった。

 この体験から地震の前夜、町に漂っていた磯辺の匂いは、地震の前兆現象ではなかったかと今でも思うのである。縁あって郷里と同じような海辺(神奈川県M)に住み、今もひそかに磯の匂いを気にしている。

なお祖父の言った百年目の大潮の計算からすると九十二年目であった。私の家は、幸い床下浸水で済んだが、夫の家(東の町I家)は、観音寺川の川口に近く、その時流失した。

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